明治40年(1907年)寺崎廣業画伯の天藾塾の塾頭をしていた戸谷幡山が小林館を訪れここの主、民作との出会いが上林温泉の発端であり塵表閣の現在あるを期したともいえる。戸谷幡山は、寺崎廣業の門下生であり、町田曲江も寺崎廣業の塾生であった。曲江の兄町田浜之助が幡山を気に入り是非とも、平穏来遊するように奨めいた。
幡山は越後に来る事になり、その帰途、地獄谷に案内され、その帰り路、小林館に立ち寄った。
上林温泉は当時小林館が一軒しかなく、静閑そのものが幡山を引きつけるものがあり、周囲の景観の素晴らしさに魅せられて、それから毎年上林を訪れ四方の風景を画帳収めている。
寺崎廣業は、明治41年(1908年)初めて来ているが、その後上林の風景にすっかり魅せられて、毎年夏には来るようになった。寺崎廣業と気の合った民作は喜んで画室を提供した。
翌明治42年(1909年)寺崎廣業は塾生多数ともなって来ている。
夏は、上林で絵を描くのが楽しみにしていた。民作はその寺崎廣業に対して喜んで画室を提供したり、寺崎廣業が別荘がほしいというので別荘を建ててやった、又、温泉がほしいというので地獄谷から大正6年(年)引湯工事を始めた。
寺崎廣業の友人で、曹洞宗本山、永平寺住職の日置黙仙大和尚と廣業は、肝胆照し合う仲であった。
( 永平寺66世「維室黙仙(いしつもくせん)」禅師 )
寺崎廣業が生前に一度上林温泉に来るようにと、度々さそっていたが、黙仙もついぞその機に恵まれなかった。
廣業の死を知り、その年の8月上林を訪れ、生前の約束を果たした。
11月に浴室の開眼の儀を行って長寿温泉と命名することになった。
黙仙は廣業が「別荘を寺にしてほしい」と家族の夢枕にたったという事を聞き、民作とも相談した。
民作も廣業の事とあって、すぐその準備にとりかかった。
寺崎一門と関係者の寄進を得て、埼玉県にあった長寿院を移して建て、廣業の別荘は長寿山広業寺として開山がなり、本尊には広業
の念仏でもあった薬師如来をまつり、永平寺の直末として寄進された。
昔から、禅林より画家が出ている例が少なくないが、画家が寺を開基をした例は無くはないが、極めてまれなことといえるだろう。